映画館での上映➕Amazonプライム・ビデオでの上映
先日ついにAmazonプライム・ビデオにて、又吉直樹原作の映画『劇場』を見ました。今回は、その感想をつらつらと書いていきます。
『劇場』の上映にあたって
映画『劇場』が公開されたのは、2020年7月17日でミニシアターを中心とした映画館での上映・同日にAmazonプライム・ビデオでの公開でした。
これはコロナウイルス蔓延の影響のため、公開時期が延期になっていたのちに決定された上映時期・方法で、コロナ禍の社会では大きな第一歩だったように思います。
ちなみに、当初の公開時期は2020年4月17日で3ヶ月の延期はだいぶ大きなものでした。
今回私は映画館には行かず、Amazonプライム・ビデオで視聴しました。
今回の記事を読むにあたって、
以前書いた「映画館への再熱」という記事の中にも書いた、映画館とコロナ感染症対策問題についてもあわせて読んでいただければ幸いです。
あらすじ
劇団の脚本家の永田、地方から東京へ出てきて服飾の専門学校に通っている沙希の2人が主な登場人物。
永田は沙希と出会い、沙希の優しさに寄りかかり生活をし、沙希はそれを許し続けるという、いわゆる依存関係が描かれているように思います。
みる人によっては依存関係についての映画じゃないと思う人もいるかもしれませんが、木暮の場合、終始依存関係に関する内容としか思えず、純愛等の印象は薄かったというのが本音です。
永田という人物の異質性・普遍性
山崎賢人演じる脚本家の永田は、映画冒頭の沙希との出会いの頃から、どこか浮いた印象を受けました。
どうやって自分の身の回りのことをしているのか、生活はちゃんとしているのか、など様々な疑問が湧きました。
そして、沙希と付き合うようになってからも、自分の身の回りのことはほとんどせず、脚本には集中するのかと思いきや、脚本もおろそかにして沙希の家に居候(恋人同士なら同棲と言うけど、居候という言葉が似合う)し、沙希におんぶに抱っこで生活する様は若干不穏な空気で、誰もが経験したことのあるお互いへの変な気の使い方、遠慮の仕方で、むずかゆい気持ちにさせます。
そしてそういう空気感から思うことは、沙希はこいつの何が好きで恋人同士になったんだろうということばかり。
物事の主張もろくにできない、お互いにすれ違いが進みちょっとした勘違いによって起こる喧嘩のときには、冷静にならず癇癪を起こす。
なんでもかんでも誤魔化す。沙希との話し合いを徹底的に避ける。
何が地雷になるかわからない異様な沸点の状態。
列挙していくと、永田がどれだけ異質な人物かがわかると思います。
しかしこういう永田のことを何度もなんども暖かく許す沙希。
でもこういう関係って、意外と身近にあったりするんですよね。
この永田の印象は、良く言えば”昭和の男”という感じ。
だいぶ良く言った感がありますが、自己表現が不器用な部分や、沙希に対する我儘の数々、沙希に自分のことを察してほしいという感覚…
このことに関しては異質性や普遍性というところで言うと、普遍性にあたるかと思います。
現代ではジェンダーの観点から性差をなくす方法に重点が置かれていますが、今もなお社会には様々なところで男女差が残っています。(体力的な面や、性の観点から仕方のないことはありますが。)
永田と沙希の関係を見ると、永田の我儘に対し一歩下がって付いていこうとする沙希の姿には、そのような印象を受けました。
途中、沙希から「結婚」という話が出ますが永田はその話から逃げ、さらには物理的にも沙希からも逃げました。
この映画を見ている鑑賞者の視点では、「永田と結婚したら必ず苦労するだろうな」ということばかり頭に浮かび、沙希には永田との結婚は考えない方がいいよと言ってやりたい気持ちに苛まれます。
そういうところから見ると、やはり沙希自体も”昭和の女”なのかなと思います。
永田に酷い扱いを受けてもなお、永田と結婚することが頭にあるという…
「こんな男と一緒に居られるか!次だ次!!」
と進んでいくことは、この映画の中の沙希の考えにはないでしょう。
そこがまたこの映画で描かれる2人の関係性に、大きな意味を与えているのではないでしょうか。
他の映画も合わせて見てみる
この映画を見終わったあと、2つの映画を思い出しました。
- レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで(2008年公開)
- ラ・ラ・ランド(2016年公開)
(『劇場』がこの2つの映画に一概に似ているということではありませんので、ご了承ください)
どちらも男女の関係を描いています。
そして映画で描かれる男女2人は、現状の生活に満足しておらず、夢や目標を追いかけています。
その姿は、とても危なっかしく夢を追いかけることで2人の関係に変化が訪れます。
『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』では、夫婦どちらも「あの時ああなっていなかったら」や「今の生活ではない別の生活」といった具合に2人とも現実から目をそらし続け、その結果2人の関係は破綻。
『ラ・ラ・ランド』でも登場する2人はそれぞれに目標を持ち、それに地道に努力をし、形は変われど2人とも順調に目標へ進んでいき、その過程で2人は別々の道へ。
映画の世界では常套手段のストーリーだと指摘されるかもしれませんが、
『劇場』でも、永田は脚本家への道、沙希は服飾関係の道へと目標を持っていました。
上記2つの映画は、目標や夢の影響で2人の関係が終結しましたが、その点『劇場』に関しては少し異なり、2人の関係性が夢や目標を閉ざします。
夢や目標が閉ざされたという点からも考えると、『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』も『劇場』と同様のような気もします。
さて、『劇場』に話を戻すと…
永田は、沙希との関係を終わらせた後、脚本家としての道を進み続けますが、一方の沙希は精神的な観点から、服飾関係の道からは離れます。
沙希の視点からみると、永田との関係に苦しみ夢への道を閉ざされることになりました。
ここから考えると、この項であげた3つの映画から考えることとしては、
2人の関係によって、外の世界から離れてしまうと現実の生活がままならなくなるということと、夢を追いかける際には別れがくることもあるということなど、ありきたりではありますが、依存関係のまま夢を追いかけるのは困難なように思いました。
さいごに
依存関係っていう言葉って案外使いやすいんですよね。
依存の中にも濃度があって、その部分をみることってなかなか難しく感じます。ただ、原作の方の『劇場』を読んでみて、永田と沙希の関係が依存関係という中でどの位置にあるのかを考えたいなと思います。
今回の映画でも依存関係が描かれているという風に述べましたが、ネタバレ等が気になり、あまり詳細を書けませんでした。
私自身、依存関係には嫌悪感があり、少しでも依存関係のように見えるところからは距離を取っています。
正直言うと、依存関係になったときの責任から逃れたい(責任を負うのが怖い)のかもしれません。相手を傷つけることや相手へ自分のことを預けたりということが、どうにも拒否反応が出てしまって、その点では永田と沙希の関係は羨ましいと思うところもあります。
今回見た『劇場』は、依存関係になれるほどのめり込める相手との恋愛も、映画として見る分には穏やかに見られるなと思ったのが本音でした。