大きな湖のある町を舞台に小学5年生の少年とその母親、そして少年の担任の先生の3者の視点でとある出来事をみていく今作。
どのシーンも見逃すことが怖く感じるくらいにのめり込んで鑑賞しました。
『怪物』概要
公開年:(日)2023年6月2日、(仏)2023年5月17日カンヌ国際映画祭にて上映。
上映時間:126分
監督:是枝裕和
脚本:坂元裕二
音楽:坂本龍一
あらすじ
大きな湖のある郊外の町。
息子を愛するシングルマザー、
生徒思いの学校教師、そして無邪気な子供たち。
それは、よくある子供同士のケンカに見えた。
しかし、彼らの食い違う主張は次第に社会やメディアを巻き込み、
大事になっていく。
そしてある嵐の朝、子供たちは忽然と姿を消した―。
感想
坂本龍一さんの遺作となった今作。
作中の音楽はもちろん、エンドロールで流れるピアノの音色でとても贅沢な余韻に浸ることになりました。
「怪物」と題された今作に対し、誰が・何が「怪物」なのかがわからず、すべてが「怪物」として見えてしまうという少し怖い印象を持ちました。
小学5年生の麦野湊(黒川想矢)とその母親・早織(安藤サクラ)、湊のクラスの担任・保利道敏(永山瑛太)の3人の視点で物語が進む今作。
まずは早織の視点によって事の発端をみていくところから始まります。
湊の変化に気づき、その原因とされる学校で起こった問題に真剣に向き合おうとする母親と、そこで意思疎通が満足にできない学校側との衝突が描かれ、学校側への見方が固まっていきました。
学校側による初期対応の違和感や、問題の当事者のひとりである人物の煮え切らない態度などへの早織の怒りは当然だと思う一方、他の2者の視点を通して見ると、発端となった出来事が全く違う様相をみせ、人間の視点の偏りを強く感じることになりました。
また、上記の3者以外の人物は視点の偏りに関連したノイズ的な役割を担っていたと思います。
日常生活を送るうえで自分が必要とする情報以外にも特に必要ではないが自分のもとにやってくる情報など、人はさまざまなノイズのなかで生活をしていると思います。
ある人についての伝聞やその人の行動の一端を拾い上げ、それらのノイズに意味を持たせてしまう。
そのひとつの例として3者以外の人物、とりわけ伏見校長(田中裕子)はわかりやすい例だと思います。
早織が湊の問題にについて校長に面会する場面や、のちに早織がスーパーで見かける校長の姿、校長自身の噂など、湊の問題を見る上で直接的に関係がない雑音ともとれる情報が早織のまわりに溢れることで、校長への見方も固定されていきます。
その視点の固定化により、鑑賞者の木暮の中でも勝手に校長の人物像が作り上げられ、ひいては校長以下、早織との面談に同席する先生たちへの見方も偏っていきました。
そこから、人間はここまで雑音をひとつの情報として拾い上げ、断片的に得たそれらをつなぎ合わせて物事を判断してしまうのかと、約2時間のうちに何度も思い知らされました。
そういった人間の判断基準への危険性を普段から頭ではわかっていると思っていましたが、それは「つもり」だっただけで自分も今作の登場人物の誰かと同じ状況に置かれたらあっさり物事の見方を固定化して感情に流されてしまうような気がしました。
さらには、これまでの人生で気がつかなかっただけで、そういう場面は数え切れないほどあったのかもしれないと思いはじめ、怖く感じました。
今作で見せられる3者の視点のうち大人である保護者と先生の視点では、そういった人間の視点にひそむ危うさをじっくりと観ていくことになりましたが、湊の視点では子供ならではの狭い世界やアイデンティティの形成をみていくことになりました。
小学5年生というと小学校入学時より語彙も増え、言葉面だけで考えるとコミュニケーションのハードルがそこまで高くないイメージでしたが、それゆえの他者からの何気ない言葉の受け取り方や他者へ投げかける言葉の鋭さなど、もう忘れていた空気感を思い出しました。
大人からすれば「そんな言葉、受け流しちゃえば良いのに」という言葉でもそうすることができない様子は木暮も身に覚えがあって心苦しく、同時にそれはまだアイデンティティの形成が始まったばかりだからこそ強く表れることなのではないかと考えました。
思春期の時期特有の「自分が何者なのかを模索する」段階で、目に入ったもの・耳に入ったもの全てを受け取って手探りで自分を自分たらしめる材料を探すかのような過程では、一見些細なことのように思える言葉でも見過ごすことはできないのではないか。
それゆえに刃物のような言葉に触れて傷つきながら、ときには他者に鋭い言葉を放って傷つけながら自分と向き合い、その途中で自分自身の埋まらない何かに合いそうなものや事、人物に惹かれていくのではないか。
湊やクラスメイトの星川依里(柊木陽太)をみていくなかでそんなことを考え、自分も経験したはずなのにもう忘れてしまった、子供時代の窮屈さや不安、興味などが呼び起こされるようでした。
案外、子供は自由じゃないし、単純じゃないし。
そういうことを思い起こすと、作中の管楽器の音色と校長の言葉が何度も頭のなかで繰り返されました。
今作を観ていくなかで、今作における「怪物」が誰なのかに注視しましたが、冒頭にも書いたように誰が・何が「正しい」のか「間違っている」のかで、「怪物」を絞り込むことはできないのだと実感しました。
取り留めがないけれど、みんな正しくてみんな間違っているのではないか。
ひとりの人間のすべてが正しいか間違っているかで見ることはできないのだと思いました。
そう考えると平野啓一郎の著書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』の中で描かれた「分人」という考え方も適用して観ることのできる物語でもあると思います。
今作は本記事で書いた以外にも多くの要素が編み込まれた作品です。
本記事で書かなかった他の登場人物も含め、物事が徐々に立体的に見えてくる体験をぜひ。
余談
2023年公開の映画の個人的ベスト3に今作を選びましたが、是枝裕和監督作品の中でも特に好きな作品になりました。
下の記事では本記事で書かなかった今作の感想を書いています。
また、安藤サクラさんが今作でもふたたびクリーニング店で働いていて、何かしらの意図を探ってしまいましたが、今のところその答えは出ていません。同監督作品の2018年公開『万引き家族』でも安藤さんが演じた人物がクリーニング店で働いていました。
それと、保利先生と同じ学校に勤務する教頭先生を「東京03」の角田晃広さんが演じており、学校関係者と早織の噛み合わない雰囲気が際立っていて、むずむずしました。