無限ループってこわくね?
『こちらあみ子』などの作品で知られる今村夏子による第161回芥川賞受賞作品。
「むらさきのスカートの女」を見つめる「黄色いカーディガンの女」が主人公のお話。
『むらさきのスカートの女』概要
著者:今村夏子
出版年月日:2019年6月7日/今回読んだ文庫版は2022年6月30日 第1刷発行のもの。
出版社:朝日新聞出版
本の内容
近所に住む「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女性が気になって仕方のない〈わたし〉は、彼女と「ともだち」になるために、自分と同じ職場で彼女が働きだすよう誘導する。
感想
特徴的な表紙がインパクト大の一冊。
『むらさきのスカートの女』というタイトルなのに表紙に紫色がないので、まず違和感を覚えました。
しかも表紙にある黒ドットの布はスカートじゃなさそうですし、しかも人間の足が2人分見えるというなんとも不思議な世界観です。
物語に入る前からすでにこの本に翻弄されつつあり、実際に読み始めるとそんなに奇怪なことは起こらず、拍子抜けしました。
しかし、主人公〈わたし〉(=黄色いカーディガンの女)と商店街の人々の視点から「むらさきのスカートの女」を知るにつれ、数々の違和感を覚えることになりました。
「むらさきのスカートの女」はいつもむらさきのスカートを穿いていることから、その呼び名をつけられていました。
〈わたし〉は彼女と友達になりたいと思うようになり、さまざまな行動をとっていくことになります。
その行動や思考の数々には危なっかしいものもあって、「むらさきのスカートの女」以上に語り手である〈わたし〉から目が離せなくなる展開でした。
それでも、そこまで突飛な出来事は起こりません。
ただ、絶妙〜に「そんな行動をしていて大丈夫なのか」と不安になる場面があり、〈わたし〉への違和感が募る一方でした。
そして〈わたし〉による「むらさきのスカートの女」の分析は、彼女が「むらさきのスカートの女」をどれほど見ているのかがわかるほど詳しいものでした。
「黄色いカーディガンの女」が商店街を歩いたところで、誰も気にも留めないが、これが「むらさきのスカートの女」となると、そうはいかない。
例えば、アーケードの向こう側からむらさきのスカートの女の姿が見えただけで、人々の反応はわかりやすく四つに分かれる。一.知らんふりをする者。二.サッと道を空ける者。三.良いことあるかも、とガッツポーズする者。四.反対に嘆き悲しむ者(むらさきのスカートの女を一日に二回見ると良いことがあり、三回見ると不幸になるというジンクスがある。)
むらさきのスカートの女がすごいと思うのは、周りの人間がどんな反応を示そうと、決して自分の歩みのペースを変えないことだ。一定の速度で、スイスイスイと人混みをすり抜けて行く。
(引用)今村夏子『むらさきのスカートの女』(朝日文庫)、pp.9-10
商店街でもジンクスができるほど有名な「むらさきのスカートの女」。
一体なぜそこまで人々の注目を集めているのでしょうか。
特におかしな行動をとるわけでもないし、〈わたし〉が見ている「むらさきのスカートの女」は地味でおとなしそうな印象を受けるので、注目される理由があまり見当たりません。
そしてなぜ語り手である〈わたし〉はこんなにも「むらさきのスカートの女」に詳しいのでしょうか。
「友達になりたい」という思いからそこまで「むらさきのスカートの女」に固執するものなのかと疑問に思ってしまいます。
しかも〈わたし〉の考えだと、ちゃんと自己紹介をした上で友達になりたいというこだわりがあることから、いきなり声をかけるという方法はとりたくないようでした。
しかしこれまでの過程は、はっきり言って「黄色いカーディガンの女」による「むらさきのスカートの女」へのストーカー行為と言っても過言ではないでしょう。
加えて〈わたし〉は「むらさきのスカートの女」の労働状況についてもちゃんと把握しています。
「むらさきのスカートの女」は時期によって働いていたり、そうでなかったりを繰り返し、職場も転々としており、〈わたし〉はその労働状況について逐一メモをし、挙げ句の果てには休日の様子や彼女のルーティーンまで把握しているという徹底ぶり。
そこでさらに疑問に思うのがそんなに「むらさきのスカートの女」の生活を把握するには莫大な時間がかかるのではないか、ということと、それならば「黄色いカーディガンの女」である〈わたし〉はどうやって生活をしているのかということです。
そんな疑問を持ちながら読み進めて行くと意外にも〈わたし〉が働いているということがわかり、ますます〈わたし〉による「むらさきのスカートの女」への執着の強さを感じることになりました。
働いている上に「むらさきのスカートの女」の動向を探るなんて、なかなかできることじゃないと思います。(ここについての疑問は物語最後のとある会話によってスッキリします。)
〈わたし〉はホテルの清掃員として働いており、職場ではチーフという役職につくほどの人物。
一方、「むらさきのスカートの女」は働かない期間が長期化し、ようやく職探しを始めることになりました。
その様子を見ていた〈わたし〉は求人情報誌を使って、自分の職場で働くように誘導し、その願いが叶って「むらさきのスカートの女」は〈わたし〉と同じ職場でホテル客室清掃の仕事をしはじめます。
普通なら、あんなに友達になりたかった「むらさきのスカートの女」が仕事仲間になったら真っ先に話しかけそうですが、〈わたし〉は違いました。
何度か話しかけようとするたびに機会を逃し、結局は「むらさきのスカートの女」を眺める日々に変化はありませんでした。
とはいえ、眺めると言っても休日出勤をして「むらさきのスカートの女」の様子を探ろうとするなど、その行動がエスカレートしているようにも思いました。
そしてなぜか〈わたし〉は、本名を知った後でも相変わらず彼女を「むらさきのスカートの女」と呼び続けたり、「友達になりたい」という思いを疑うほど傍観者に徹底しているなど、読んでいてますます〈わたし〉の行動や思考がわからず、困惑する場面が多かったです。
また、通勤バスでのとある出来事などからも〈わたし〉が彼女と友達になれるならば「むらさきのスカートの女」を物理的に傷つけても構わないと考えていることもわかり、その狂気じみた怖さを確信しました。
その上で〈わたし〉がそうまでして「むらさきのスカートの女」と友達になりたい理由が見えてこず、そうこうしているうちに事態が進展しラストへとつながっていったので、結局〈わたし〉の意図はなんだったのか気になり続けています。
「むらさきのスカートの女」については〈わたし〉視点でどんどん明かされていきましたが、肝心の〈わたし〉については〈わたし〉によって語られることがなかったので、その感情も、どんな人物なのかも手探りの状態で読んでいきました。
また、読み終わっても〈わたし〉について言えるのは「むらさきのスカートの女」に関する物事がほとんどだということにも気付き、だからこそ余計に〈わたし〉が「むらさきのスカートの女」に執着しているように見えたのかもしれないと思いました。
この感想記事を書くにあたって物語を振り返ってみると、〈わたし〉が「むらさきのスカートの女」に執着したのは彼女に何か近いものを感じていたからなのではないかと思い始めました。
〈わたし〉の職場での立ち位置や同僚との距離感、労働に対する意識などは断片的な情報から考えても、「むらさきのスカートの女」と少し近い何かは感じます。
それでも「むらさきのスカートの女」は、それまで抱いていたおとなしそうなイメージとは異なる行動を終盤にかけてとり始め、〈わたし〉と近い何かが見えなくなって、「むらさきのスカートの女」に突き放されたように感じる場面もありました。
結局のところ、これまで見てきた「むらさきのスカートの女」は〈わたし〉を通してみていた人物だったので、もしかしたらこれまで〈わたし〉に都合がよい「むらさきのスカートの女」を見せられていたではないかと、読み終わった今になって思い始め、疑心暗鬼気味になっています。
そもそも「むらさきのスカートの女」と〈わたし〉は近い存在なのか、どうなのか…
そして「むらさきのスカートの女」は〈わたし〉以外にはどう映っていたのか。
反対に〈わたし〉は「むらさきのスカートの女」や他者からどう映っていたのか。
読み終わったあとも水源のように疑問が溢れ続ける作品でした。
また、最終的な展開についてはこの記事の冒頭にあるように「無限ループってこわくね?」という感想でした。
著者エッセイや訳者解説についての感想
今回読んだ文庫本には著者のエッセイや訳者解説が収録されていました。
著者エッセイは小説執筆にあたっての姿勢や、芥川賞受賞前と後の心境について書かれており、想像していたよりも軽やかな文章だったので、明るい気持ちになった上に親近感まで湧きました。
訳者解説は本書を英訳したルーシー・ノースによる解説で、その解説によって作品に新たに厚みが加えられた印象でした。
訳者ならではの視点として、英語版と日本語版でみられる言語的背景や文化的背景への理解が作品への印象に与える影響についての解釈は特に興味深かったです。
「あいさつ」に関する日本特有の感覚を英語版でどのように理解されるのかという視点は、ほとんど感覚で読んでいた部分だったこともあり、「そう言われてみれば…」と気付かされることが多い解説でした。