やおら日記

日々のあれこれを なんやかんや書いているナマケモノ日記

村上春樹が新刊を出すたびに蘇る中学の先生

 

木暮が中学の頃の話になります。

 

 

木暮は山奥育ちで当時、1学年1クラスの小規模学校に通っており、中学3年間は担任の先生が変わりませんでした。

 

 

通っていた中学校は、朝に15分間の読書タイムが設けられていました。

 

 

図書館で借りたり、自分で購入したりと各々が読みたい本(場合によっては漫画も可)を持ってきて読むという時間で、その時間は黒板の上にあった時計の秒針の音や、本をめくる音くらいしか聞こえない静かな時間でした。

 

 

生活指導の先生に目をつけられたりしていた生徒も、イヤイヤな感じを醸し出しながら、なんだかんだ読書していました。

 

担当教科が理科だった担任の先生は、いつもその時間には科学雑誌を読んでいました。大学で研究職を続けていたけれど、地元に戻って教員になったという先生だったので、理科漬けの人間として認識していました。

 

 

例の生徒は「先生が雑誌読んでるなら、自分も雑誌を読んでもいいだろ」論を展開していましたが、特に相手にもされず教室後ろに設置されていた本棚*1にあった浅田彰『構造と力』をパラパラめくっていたのを今でも覚えています。

 

表紙が幾何学的だったので、てっきり数学や科学の本だと当時は思っており、文系まっしぐらの木暮は開くことさえありませんでした。

 

大学に入り、講義で『構造と力』が少し紹介されたときには、その生徒を思い出し、その内容の難解さに「中学生で読むのは難しい本だったんじゃないか」と、懐かしく思いました。*2

 

 

そんな思い出があった読書タイムでしたがある時、先生がいつもの科学雑誌ではなく小説(のような本)を読んでおり、木暮を含めて生徒数人がその変化に気づき、そのうちの1人が「先生、何の本を読んでるの?」という質問をしました。

 

ブックカバーがかけられ、最初は小説なのかどうかもわかりませんでしたが、その質問を受けた先生はブックカバーを外し、表紙を見せてくれました。

 

その頃には、その他の生徒も本から顔を上げ、先生が見せてくれた本の表紙に注目していました。

 

表紙には、タイトルと著者の「村上春樹」の文字があり、その当時メディアでも新刊が発売され、書店には開店前に行列ができているという報道がされていたので、そのニュースを見た人は「村上春樹の新刊だ」とちょっとした騒ぎになりました。

 

ちなみに、木暮も含め「村上春樹だ!」と騒いだ生徒は実際に村上春樹を読んだことはなく、いつも科学雑誌しか読んでいなかった先生が小説を、しかも今話題になっている村上春樹の小説を読んでいたという謎の驚きにより、それまで静かだった教室が少し騒がしくなりました。

 

 

「先生、村上春樹好きなの?」

 

という質問も出て、それに対して先生は表情を変えず

 

「いや、村上春樹は嫌い。嫌いだから読んでる。」

 

と言っていました。

 

 

 

”嫌いだから読んでる”

 

 

 

意味がわからない。というか今でも意味はわかっていない…

 

 

質問した本人は「ふーん」と言って、手元の本に目を落としました。

 

 

「嫌いだから読んでるって、どういうことですか?」と聞きたかったけど、みんな読書に戻っていたので、話を蒸し返すこともできず。

 

そのまま聞く機会を逃し現在に至るのですが、木暮は村上春樹の本を『女のいない男たち』『一人称単数』『猫を棄てる』の3冊しか読んだことがないので、その先生が言った意味はわからずじまいで、何なら特に意味はなかったのかもしれないとさえ思っています。

 

 

ただ、厄介なことに村上春樹の新刊の情報を目にすると、当時の担任の先生がまた買って読んでいるのか、もしくは読まなくなっているのかと考えるようになっていて、村上春樹の新刊情報は、中学の先生を思い出すきっかけになっています。

 

 

村上春樹の新刊とともに蘇る中学の先生。

 

 

「嫌いだから読んでる」の一言が、ここまで尾を引いているとは思っていないでしょう。

 

そして3年間担任だった先生の記憶がその一言のおかげで、他の記憶が霞んでいるのが我ながらなんとも情けなく思います。

 

果たして今度の村上春樹の新刊を、あの先生は買って読むのか。

 

 

 

 

 

*1:担任の先生が持ってきた本を置いていた本棚だったのか、今となっては定かではありません。入学当初からずっと置いてあった本棚で、気がつくと本のラインナップが変わっていたりしていました。

*2:浅田彰『構造と力』は最初の数ページで脱落した思い出もあります。未だにその先に進めていない。