購入した本のアーカイブ計画 ─9月編─
2023年9月に購入した本と栗拾いについての雑記です。
9月に購入した本
出版年月日、出版社は割愛しています。
- 安部公房『箱男』
- 春日武彦『恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで』
- 河合隼雄、村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』
- 坂牛卓『教養としての建築入門、見方、作り方、活かし方』
- 杉井光『世界でいちばん透きとおった物語』
- 背筋『近畿地方のある場所について』
- 高瀬隼子『いい子のあくび』
- 戸田吉彦『北斎のデザイン 富嶽三十六景から北斎漫画までデザイン視点で読み解く北斎の至宝』
- 氷室冴子『海がきこえる』1、2巻
- 平野啓一郎『三島由紀夫論』
- 村上春樹『職業としての小説家』
- 村上龍『希望の国のエクソダス』
- アルトゥル・ショーペンハウアー『読書について』
読書の秋に突入のはずですが、もはや秋というよりも朝晩の冬に近い寒さで身体が悲鳴をあげております。
さて、いつもと同じく9月も新刊ではない本も気になり、購入しました。
ショーペンハウアーの『読書について』は、高校生のときの現代文の授業で少しだけ読んだ記憶がありますが、内容は覚えていないという状況でした。読書の秋も始まるし、読み直してみようかと思い購入。
ちょっと木暮にとっては耳が痛い言葉もありました。
『教養としての建築入門』は7月に購入した本の記事でも書きました、アントニ・ガウディの建築についてみていく中で建築全般への興味が再熱し、新書で建築についての本を探していたところ発見しました。
建築については詳しくない木暮でもどんどん読み進めることのできる1冊で、中でも2022年に解体された中銀カプセルタワービルから建築における空間や物の関係性をみていったり、夏目漱石の家の間取りから建築のモダニズムへの移行をみていくなど、さまざまな分野からの視点で建築について知ることになりました。
『恐怖の正体』はタイトルから興味が湧き購入。
個人的には「○○恐怖症」というものは持っていないと思っているのですが、先日記事にしたカメムシ事件を踏まえると、「カメムシ恐怖症」を持っているのかもしれません。
この本に登場する数ある事例の中でも『きかんしゃトーマス』のスマジャーの話からみるグロテスクにまつわる項目は特にシュールで面白かったです。
そしてこの本の近くに陳列されていた『近畿地方のある場所について』は、人生で初めてかもしれないホラー本の購入でした。
ホラーがとても苦手な木暮は意を決して購入したにもかかわらず、いまだに読み始めることができていません。
モキュメンタリー・ホラーという木暮にとってはあまり馴染みのないジャンルなので興味はあるのですが、勇気ゲージがまだ溜まっていないので読み始めるのはまだまだ先かもしれないです。
暑い日も落ち着いてしまったのでね…(言い訳)
『北斎のデザイン』は北斎の生涯を描いた映画『HOKUSAI(2021年)』を鑑賞して、北斎の作品についてもう少しくわしく知りたいと思い購入しました。
カラー図版満載なので作品名でその絵が思い出せないということもなく、半ば息抜きの意味合いも含めて読んでいます。また、文章量も少なくないので読み応えがあります。
構図についての解説ではスマホによってカメラが身近になった現代にも通じるようにも思いましたし、色彩については西洋と日本で藍色を通じた文化的な交流があったことも知り、物理的な距離を超えて影響を与え合っていたのかと不思議な気持ちになりました。
木暮の記憶だと美術の授業では作品作りがメインで、日本美術についての授業がなかったので、学校の授業でも日本の美術についての授業があったら面白かっただろうなと、この本を読んでいて思いました。
もしかしたら木暮が通っていた学校ではそういう授業がなかっただけかもしれません。他の学校ではどうなんでしょう。
その他の本はタイトルは知っていたけれど読んだことがなかった本ばかりでした。
過去の本も含めて積読は減らしていかねばと思うひと月でした。毎月思っている気もする。
最近はすっかり肌寒くなってきて家から出るのも億劫になっているので、また読書に向いていきたいと考えています。
【余談】その後のカメムシ話
前回の記事でカメムシとの再会について書きました。恐怖の一部始終とちょっとだけ、カメムシ対策およびカメムシの生態について紹介しています。
カメムシ恐怖症の木暮は、この購入本の記事を書いている最中にもカメムシと戦っていました。
換気をしようとカーテンを開けると、無数のカメムシが網戸に群がっているではありませんか。
しかもおおよそ半数近くが網戸の内側にいるという恐怖。
あまりの出来事に言葉を失いました。
そして窓を開けようものならダイレクトに部屋に入ってくるのだろうと思い、鳥肌がたちました。
網戸は締めきっており、侵入するとしたらサッシレールの隙間からでしょう。
当のカメムシは、なかば不法侵入しながら「自分たちがここにいるのは当然だ」と言わんばかりの態度。
これは許せません。
「カメムシキンチョール」を窓は開けずにサッシの隙間めがけて噴射し、カメムシをサッシの隙間から遠ざけました。
このとき、サッシレールの方からゾロゾロとカメムシが上がってきたので、発見が遅れたら不法侵入を見逃すところだったのだと思い、ふたたび鳥肌が。
ちなみに毎朝、このカメムシキンチョールをサッシの隙間に噴射しており、先日まではその効果もあってカメムシを見かけなかったので、ちょっと安心していたんです。
そんなところに無数のカメムシが現れたので、精神的にはだいぶ応えました。
もういやだ…
サッシ自体は10年ほど前に新しいものに交換しているし、今春には網戸の張り替えもしたんですが、それでもダメなのか。
なんでカメムシに振り回されなきゃいけないのか。
そんなことを思いながら、ダクトテープでサッシの隙間を塞ぐことで換気から遠ざかった木暮でした。
換気がしたい…
秋の味覚「栗」を拾った
実は木暮の家には大きな栗の木があります。
家を建てたときに植えたそうなので、樹齢約50年といったところでしょうか。
ところどころ剪定をしたり、台風で枝が折れたりしながらもずっと成長しつづけ、今では木暮が住む2階建の家よりも高くなりました。
そしてその高さからこの時期に落ちてくるのが、イガ栗です。
今年はすこし遅かった気がしています。
さすが樹齢約50年。大量に秋の味覚をお裾分けしてくれました。
長年、タイヤで切りつけられていたのでアスファルトは粉々です。そこにバラバラと落ちているイガ栗たち。
落下したときに傷が入ってしまったものなどは避けつつ、栗拾いをしていきました。
傷が入っていたり破裂した栗は人間よりも早くに虫の餌食になっているので、虫たちに譲ります。
今年は猛暑日がつづき雨も少なかったこともあってなのか、あまり大きくはならなかったようです。
しかし皮部分の艶はいつも通りツヤツヤで、栗ならではのこの艶を見ていると秋だなと思います。
そして軍手はしつつもやはりイガの餌食にもなってしまい、ちょくちょく刺さる場面もありましたが、栗拾いをしている間は頭上の枝からイガ栗が落ちてくることはなく、栗の木の優しさを感じました。
いつも栗拾い中は落ちて来ないんですよね。不思議。
この日はだいたい50個くらいの栗を拾って、少しだけ塩を加えて皮ごと茹でました。
今回はいつも通り茹でても硬いままだったので茹で時間を追加していきましたが、硬さはそこまで変わらず…
これも猛暑日と雨が少ない日が続いたことが影響しているのでしょうか。
とりあえず皮を除去して冷凍へ。
栗ごはんを食べたいときのために備えておきます。
さいごに、栗拾い中に見つけた生き生きとしたイガ栗の写真を載せます。
笑っているように見えたイガ栗です。
ここまで豪快に笑ったのはいつだろうかとハッとさせられました。たぶん、さくらももこのエッセイ『もものかんづめ』を読んだときが最後の記憶な気がする…
落ち込むようなことはないですが、年を重ねるごとに笑う機会が減っていっている気がする…
イガ栗から笑顔を思い出した今秋の栗拾いでした。