やおら日記

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【小説】村上春樹『一人称単数』感想

 

分岐点だったのかもしれない人生の一コマについて8編の短編によって振り返る村上春樹短編集。

 

 

『一人称単数』概要

作者:村上春樹

出版年月日:(単行本)2020年7月18日、(文庫)2023年2月10日*1

出版社:文藝春秋

 

本の内容

人生にあるいくつかの大事な分岐点。そして私は今ここにいる。
――8作からなる短篇小説集、待望の文庫化!

ビートルズのLPを抱えて高校の廊下を歩いていた少女。
同じバイト先だった女性から送られてきた歌集の、今も記憶にあるいくつかの短歌。
鄙びた温泉宿で背中を流してくれた、年老いた猿の告白。
スーツを身に纏いネクタイを結んだ姿を鏡で映したときの違和感——。

そこで何が起こり、何が起こらなかったのか? 驚きと謎を秘めた8篇。

収録作:「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」「『ヤクルト・スワローズ詩集』」「謝肉祭(Carnaval)」「品川猿の告白」「一人称単数」


「一人称単数」の世界にようこそ。

(引用)文春文庫『一人称単数』村上春樹 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS

 

感想

本書は文藝春秋が発行している雑誌『文藝界』に掲載された7作品と、書き下ろしの『一人称単数』を加えた8作品の短編小説からなります。

 

個人的には昨年、『ドライブ・マイ・カー』を読んで以来の村上春樹短編集になりました。記事にはしていない…

 

本短編集では、振り返ってみると分岐点だったのかもしれない、人生の一コマについて描かれています。

 

 

年齢の括りなく、どの段階で振り返っても「あのときの出来事は必然だったのかもしれない」と思う出来事が見つかると思います。

 

明確に「受験に合格した」「希望していた職種に就職できた」ということではなく、「あのとき、あの場所で交わした何気ない会話」や「偶然居合わせたあの場所で起こった出来事」などを振り返ってみると、必然だったのかもしれないと思うアレです。ざっくり。

 

 

木暮は8編の中でも特に『ヤクルト・スワローズ詩集』、『一人称単数』で印象的な言葉がありました。

 

『ヤクルト・スワローズ詩集』は、主人公が神宮球場で野球観戦をしていたときに書き溜めていた詩を詩集として500部限定で自費出版した話。

 

サンケイアトムズ時代の負け続きだった時代を、詩とともに回想している箇所が特に印象に残っています。

 

(前略)一九六八年から七七年にかけての十年間、僕は実に膨大な、(気持ちからすれば)ほとんど天文学的な数の負け試合を目撃し続けてきた。言い換えれば「今日もまた負けた」という世界のあり方に、自分の身体を徐々に慣らしていったわけだ。潜水夫が時間をかけて注意深く、水圧に身体を慣らしていくみたいに。そう、人生は勝つことより、負けることの方が多いのだ。そして人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」よりはむしろ、「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。

(引用)村上春樹『一人称単数』(文春文庫)、pp.141-142

 

どのようにうまく負けるか…

 

スワローズに関する詩集の話から人生の話へ、一瞬で移り変わったことに驚きとともに妙に納得しました。

 

 

というか木暮の人生、振り返ってみると何か(誰か)に勝った場面ってあったかな…

 

部活の大会では勝ったことはあったけど、そういうことじゃなくて…何かこう…

 

じわじわとくる勝ったということ…

 

 

この引用文にあるように人生は、天文学的な負け試合の連続で、次の負け試合に向けて身体を慣らしていく過程のことなのかも…

 

なんだか案外、暗い気持ちにはならずにいられそう。

 

 

負け試合がデフォルトならば、それをどのようにうまく負けるか。

 

 

ただ負けるよりもだいぶ難しそうですが、他の短編作品『クリーム』にもあるように自分の頭を怠けさせずに難しいことを考え続けたいところです。

 

 

そして、本書での書き下ろし『一人称単数』では、人生観に関して直球で表現されています。

 

私のこれまでの人生には──たいていの人の人生がおそらくそうであるように──いくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことができた。そして私はそのたびに右を選んだり、左を選んだりした(一方を選ぶ明白な理由が存在したときもあるが、そんなものは見当たらなかったことの方がむしろ多かったかもしれない。そしてまた常に私自身がその選択を行ってきたわけでもない。向こうが私を選択することだって何度かあった)。そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。

(引用)村上春樹『一人称単数』(文春文庫)、p.240

 

人間は1日に選択できる数が決まっていると、どこかで耳にしたことがあります。

 

スティーブ・ジョブズとか、マーク・ザッカーバーグ関連の話でたびたび耳にする話だと認識していますが、人間が行う数多い決断の中でちゃんと納得がいく決断を毎回しているかというと、全くそうではないと思います。

 

 

その時に選びやすい選択肢に流れるというか。

 

環境だったり状況の流れで選択する場合もあり、そのときがまさに「向こうが私を選択」しているときなのかもしれません。

 

 

個人的な話になりますが、中学時代の国語の先生の最初の授業で言われた言葉で、いまだに頭から離れないものがあります。

 

人生で思い通りにならないことはない。

全部、自分が選択しているし、選択できないことはない。

木暮の中学時代の国語の先生による言葉

 

この言葉を聞いた当時12、13年生きただけの木暮にとっては、「いやいや、そんなことはないでしょ。この先生は胡散臭いなあ」と思ったエピソードでした。

 

しかし、その先生が言うには「眠ろうと思って部屋の電気を消す」「図書館で本を借りようと休み時間に席を立つ」などの行為はすべて自分の選択によるものだから多かれ少なかれ自分で選択しながら生きているのだということでした。

 

加えて、「新学期始まって早々の国語の授業で言うことではないけれど」と前置きをした上で、「今日、学校に来て席に座って授業を受けているのも自分の選択の結果。親がうるさかろうがなんだろうが、来ないという選択を選ぶことだってできる。学校に行くふりをしてそのまま来ないという選択だってできたはず。それを選んでいないから、今こうしてみんなは授業を受けている。」ということも言っていました。

 

この言葉を聞いたときは、なかなか尖った先生だなあと思いました。

 

でも、究極的にはすべて自分の選択によって成り立っているというのは、このときの先生の話で腑に落ちました。

 

もちろん生死に関する場面で、どうしようもなく自分が選択できないこともあるかもしれませんが、そこに至るまでのさまざまな選択の結果で、その状況になっているのだと考えると、これまで見てこなかった自分の選択が急にはっきりと見えてくるようでした。

 

なので、それから何度も「失敗した」と思う場面がありましたが、やはり最終的には自分のそれまでの選択の結果なのだと思い、選択を続けてきました。

 

もちろん、「向こうが私を」選んだように感じる場面もありましたし、自分以外の存在が関わる選択の場合、状況に流されることもしばしばありました。しかし、それ以外の選択肢を用意しなかったことも、最終的にその分岐点に進んだことも、自分の選択によるものだと思っています。

 

そして、やっぱり日々の生活に忙殺されていくと、知らず知らずのうちに選択しているということもあるので、大きな分岐点の場合に選択肢の存在をみすみす見逃さないようにしていきたい…

 

「どのように負けるか」も選択の仕様で様々な負け方に変化しそうだなと、記事を書いていて徐々に思い始めました。

 

 

関連サイト

books.bunshun.jp

 

今年の4月13日に新作長編の発表もあるそうなので、そちらも気になります。

www.shinchosha.co.jp

 

 

*1:この記事では文庫版を読んで書いています。