やおら日記

日々のあれこれを なんやかんや書いているナマケモノ日記

【新書】三木那由他『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』感想

 

会話のなかで行われる「コミュニケーション」と「マニピュレーション」をフィクション作品を通して分析していく本書。

 

「コミュニケーション」と「マニピュレーション」を区別することで、会話の営みを分析していくという試みがとても面白かったです。

 

だいぶ熱量高めに記事を書いたので長文になりましたが、「上司が言っていることがしょっちゅう変わって困っている」という人には特に読んでほしい部分もありました。

 

 

『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』概要

著者:三木那由他

出版年月日:2022年8月30日初版第1刷発行

出版社:光文社

 

著者について

専門は現代分析哲学言語哲学、特にP. グライスやその影響下にある意図基盤意味論の論者たちによる話し手の意味(speaker meaning)の分析。そのほかに、形式意味論、語用論、心の哲学などに関する論文がある。単著『話し手の意味の心理性と公共性』にて、グライスの意図基盤意味論を批判し、話し手の意味の理論と共同行為論を結びつけることによる新たなコミュニケーション・モデルを提案している。

現在は、共同行為論的観点から話し手の意図や信念、目的などには還元できないコミュニケーションがいかに生まれてくるかを考察するとともに、それによっていかにしてコミュニケーション特有の暴力の形態が生じるのかを論じようとしている。

(引用)三木 那由他 (Nayuta Miki) - マイポータル - researchmapより一部抜粋して引用

 

本の内容

日常の会話のなかで、私たちは巧みにコミュニケーションをおこない、それによってさまざまなマニピュレーションを成功させようとしています。[中略]
会話のなかでのこうした企みは、何かしら不誠実なものだと思われることも多いように思います。そして、本書でものちに取り上げるように、本当に不誠実な場合もあるでしょう。
ただ、基本的な姿勢としては、私はこんなふうに互いに工夫を凝らして会話のなかで試行錯誤する人々の姿を愛おしく思っていて、そうした人々が織りなす会話という営みそのものが、その企みゆえに多様な面を持った魅力的な現象でもあると思っています。
(「第一章 コミュニケーションとマニピュレーション」より)

(引用)会話を哲学する 三木那由他 | 光文社新書 | 光文社

 

コミュニケーションとマニピュレーション

本書の副題にもなっている「コミュニケーション」と「マニピュレーション」について著者は本書冒頭で以下のように定義しています。

 

コミュニケーションは発言を通じて話し手と聞き手のあいだで約束事を構築していくような営みで、マニピュレーションは発言を通じて話し手が聞き手の心理や行動を操ろうとする営みです。

(引用)三木那由他『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』p.4

 

本書ではコミュニケーションをみていくにあたって「約束事」という言葉を使うことにで、フィクション作品の会話を例にコミュニケーションが単なる情報の伝達ではなく、会話の中で話し手と聞き手が約束事を構築してく様子をみていきます。

 

 

コミュニケーションにおける約束事について、本書で用いられる例に以下のような会話があります。(AとBの計2人の会話)

 

A これから映画に行かない?

B 明日テストなんだよね。

A そっか。じゃあまた今度にしよう。

 

Bは「明日テストなんだよね」と言ったことで、〈BはBが映画に行けないと思っている〉ということをふたりのあいだの約束事にしようとしていると考えられます。

(中略)

まずこのあとのBの行動について考えてみます。例えばこのやり取りがあったあとで、Bが特にテスト勉強をするでもなく遊んでいたり、別のひとと映画に行ったりしているのを見たら、Aはきっと非難するでしょうし、Bは非難されて仕方のないことをしたと言えそうです。

(引用)三木那由他『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』pp.63-64

 

つまり上記の引用文の例の場合、BにはAとした会話によって形成された約束事に従う責任が生じていることになります。

 

そしてその約束事に反する行動をとった場合、現実的にはBが形成した約束事が「嘘」だったと解釈される可能性が高まります。

 

加えて、約束事に従うのはBに限ったことではなく、Aにも同様にその責任があることも忘れてはいけません。

 

Bが明日のテストを理由に映画を断った場合にAがその後すぐに何事もなかったかのようにBをふたたび映画に誘うことは、この場合の約束事に反する行為にあたります。

 

本記事ではコミュニケーションにおける「約束事」については、上記の例による紹介でとどめますが、本書では約束事についてフィクション作品などの例も用いて掘り下げています。

 

 

一方、「マニピュレーション」については主に第6章と第7章にて、より詳しくみていくことになります。

 

この項目初めの引用文のようにマニピュレーションは話し手から聞き手の心理や行動に影響を与えるという要素があります。

 

そのため、話し手に悪意がある場合は聞き手に良くない影響が出る場合がありますが、マニピュレーション自体は悪意の有無だけでは判断することができないものでもあり、本書では悪意が関係しないマニピュレーションの例として、尾田栄一郎ONE PIECE』や荒川弘鋼の錬金術師』などの会話例が挙げられています。

 

話し手である人物が聞き手である人物との間で「約束事」を形成することが憚られる場面で行われるマニピュレーションは、フィクション作品なら目にしたことが多い場面だと思います。

 

例えば、話し手が聞き手にある物を貸したいけれど、規則によってそれが難しい場合に、話し手が聞き手に対して「自分が見ていない間にその物がなくなっていても、それは自分には関わりのないことだ」というようなことを言う場面などですね。*1

 

これによって話し手は聞き手に対して悪意ではなく、マニピュレーションを行なっていることがわかります。

 

しかし木暮は悪意も含めたマニピュレーションが気になったので、下記感想の後半で本書を読んで考えたことを書きました。

 

感想

コミュニケーションについて考えたこと

「第5章 すれ違うコミュニケーション」では、聞き手に伝わってほしいのに伝わらず、結果的にコミュニケーションがうまくいかなかった状況について取り上げられています。

 

その中でも高橋留美子高橋留美子劇場』(短編漫画シリーズ)にある「君がいるだけで」という作品を例にしたコミュニケーションの失敗が、個人的には実生活で経験しやすい例なのではないかと思いました。

 

本記事ではネタバレが怖いので『髙橋瑠美子劇場』の引用はしません。

 

その代わり、だいぶ平たく例えて言うならば作中では「言った・言わない」論争に近いことが行われています。

 

「話し手である客」が「聞き手である店員(留学生)」が注文を間違えたということにして注文内容を変えようとし、その際に客が店員より立場が上である店長に事実とは異なる主張をして責任を擦りつけようとするが…

 

という流れです。

 

この場面を本書で初めて読み、店員に対する客の言葉やそこでおこなわれた悪意あるやり取りに、やるせない気持ちになりました。

 

とくにこういった場面でのやりとりは、立場の違いを利用したものが多いようで、この場面について著者は以下のように分析しています。

 

コミュニケーションをしている当人同士のあいだで、自分たちがどういった約束事を形成したかについての不一致が生じ、どうしてもその擦り合わせがうまくいかなくなったとき、このようにひとはしばしば周囲の人間に自分たちのコミュニケーションがどのようなものであったかを語り、外側から約束事を確認させようとします。その際、一方がその社会においてマイノリティに当たるなら、それはそのひとにとって不利に働くことが多いと考えられます。

(引用)三木那由他『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』p.199

 

この例にあるような「客」と「店員」という立場の違いによるコミュニケーションの失敗は、会社においても起こりうることだと思います。

 

例となった『高橋留美子劇場』の作品と、著者による分析(上記引用)を読むにつれ、会社内で往々にして生じる、「上司からの誤った指示」と「その指示に従った部下」の関係にも当てはめて考えるようになりました。

 

以前の職場の直属の上司は指示がコロコロ変わり、最終的には「自分はそんな指示を出していない」と主張をして、素直に指示に従った部下が痛い目を見るということが多々ありました。

 

だいたい1週間に一度か二度あるくらいのペースで起こっていたので、木暮を含めて課の人間はそういうことが起こるたびにどんどん精神的に参っていました。

 

また精神的だけだったら良いのですが、ひどいときは取引先に直接迷惑がかかりそのことで木暮たちのボーナスの額にも影響が出ていたので、なんとかしたいと思うようになってとある方法に行きつきました。

 

本書を読み進めるにつれ、どうやら当時やっていたその方法はコミュニケーションの約束事の形成の観点からも有効な手段だったのかもしれないと思うようになったので、今回その方法を書き出してみようと思います。

 

その方法というのが上司から指示を受けた際に、

 

  • 課の人間が近くにいた場合は、わりと大きめの声で周囲の人間にも聞こえるように上司からの指示を詳細まで復唱する(周囲に課の人間がいなかった場合は、課の人間がいるときに再度、同じような方法で指示内容を上司に確認をとる)
  • その復唱の後に「今の内容で間違いないですね?」と上司に念を押す
  • ダメ押しにどんな小さな指示でもメモを取ってそのメモを上司に見せて確認をとる
  • 特に取引先に直接関係する指示の場合は、その指示を行うのが木暮1人であっても指示内容を詳細まで書いて課の共有ファイル(専務や社長まで閲覧できる)に流す

 

という方法でした。

 

つまり上記の方法では、前述の例にある「客」と「店員」に照らし合わせ、上司を「客」、部下である木暮を「店員」だと考えるならば、両者のあいだの約束事の不一致を起こす手前で釘を刺し、不一致が起こりにくい環境をつくっていたことになるのではないかと考えました。

 

仮に「客」側が後から周囲の人間を巻き込んで外側から約束事の確認を取ろうとしても、すでに周囲の人間には約束事が共有されているため、その行動が意味をなさないものになることになります。

 

それで、何が起こったかと言うと上司から課の人間への指示が慎重になりました。

 

上記の方法を木暮以外の課の人間もとるようになったため、無理な指示を押し通すことへの何かしらの心境の変化があったからか、徐々に指示内容も明確になっていきました。

 

それに加えて、あとから指示を変える際にも以前は「そんな指示は出してない!」という感じだった上司から「例のあの件、〇〇って言ったけど▲▲に変更してほしい」という指示伝達に変わったので、木暮的にはだいぶ仕事がやりやすくなりました。

 

またこの約束事の共有においては上司だけでなく木暮も約束事に反する行為がしにくくなりますし、課の人間も木暮が約束事に反していないかを見極めることになり、約束事について上司も木暮も課の人間もほぼ同等の責任を負うことになっていたと思います。

 

言わずもがなかもしれませんが、上司からすれば木暮は面倒くさい部下だったことでしょう。

 

木暮もいちいちしつこく上記のことをやるのは面倒だったので、お互い面倒なことになっていました。

 

できるだけ社内のことは社内で片付けるのが重要ですが、取引先と直接関係する事柄でそういうことが起こると、迷惑をかけたくない相手にも迷惑がかかるという状況だったので、しつこいくらいでちょうどよかったのかもしれないと思います。

 

そのためコミュニケーションの不一致においては、あらかじめ自分から外側の人間に約束事を共有しておくことが、解決策のひとつにあるのではないかと考えました。

 

先手を打つというか、なんというか。

 

ただ、補足したいのはこの方法が正しい解決方法なのかはわからないということです。

 

コミュニケーションの不一致の際に絡む、力関係や社会的地位の違いなどの様々な要素を踏まえると、有効ではない場合もあると思います。

 

実際、木暮が上記の方法でコミュニケーションの不一致を減らせたのは、共有フォルダが専務や社長が閲覧できるものだったことも関係しているのではないかと考えました。

 

本当に専務や社長が見ていたかはわかりませんが、ある種のパノプティコン的な現象も加わっていたのかもしれません。パノプティコンを例にした場合、上司や木暮、課の人間は囚人的な立場になってしまいますけどね。

 

結果的に木暮が行なっていた方法はある意味機能したと考えられるかなぁという、過去の経験と本書で分析されたコミュニケーションの不一致を照らし合わせて思ったことを書き出してみました。

 

これらの話し手と聞き手の力関係や社会的地位の違いによって起こる「コミュニケーションの暴力」について本書では「意味の占有」という項目で理論立てて取り上げられているので、コミュニケーションの不一致に関心のある方は実際に読んでみてください。

 

マニピュレーションについて考えたこと

前述のようにマニピュレーション自体は悪意の有無では判断できないものです。

 

それを念頭におきながらも「忖度」という観点からマニピュレーションを考えたいと思います。

 

2017年の流行語大賞に選ばれた「忖度」。

 

本来の意味は「他人の心中をおしはかること。推察。*2」ですね。

 

2017年当時は「忖度」をした上で、その忖度の対象に都合の良い状況をもたらそうとする行動もその言葉に含有しているかのような印象を受けていましたが、実際には「相手の心中をおしはかる」以上の意味合いはないようです。

 

マニピュレーションは話し手から聞き手に対してコミュニケーションとは異なる階層で行われており、以下のように区別されます。

 

コミュニケーションはいわば話し手がおこなった発言の表の姿であり、それによって話し手が堂々と伝達し、聞き手とのあいだの大っぴらな約束事としているような、主音声的なものとなっています。けれど話し手はしばしばその裏で、まったく別の企みのもとで聞き手にメッセージを届けたり、聞き手の心理や行動を一定の方向に導いたりもします。これがマニピュレーションなのですが、こちらは話し手がおこなった発言の表の姿だけからは見えてこず、しかし話し手の心理を深く推察するなどしたならば、まるで音声切り替えをしたように聞こえ始める、副音声的なものとなっています。

重要なのは、これらはまったく切り離された営みというわけではない、ということです。コミュニケーションもマニピュレーションも、話し手が発言をおこなうことを通じて遂行することです。そしてしばしば、話し手はひとつの発言でその両方をおこなっています。

(引用)三木那由他『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』pp.211−212

 

上記の引用文でマニピュレーションの定義づけとして「話し手の心理を深く推察するなどしたならば、まるで音声切り替えをしたように聞こえ始める、副音声的なもの」という表現があります。

 

聞き手が話し手の心理を推察することで、コミュニケーションという表立ったやりとり以外の意味合いが生じてくるということですね。

 

このことから木暮はある種の「忖度」にも通じるものがあるのではないかと思いました。

 

さらに、コミュニケーションの不一致の場面でも登場した力関係や社会的地位の影響もマニピュレーションにも関係するのではないかとも考えました。

 

 

忖度をする関係の場合、忖度する側とされる側の関係にはある程度の力関係が介在しており、話し手よりも聞き手は立場や社会的地位が低い(弱い)位置にいると仮定すると、マニピュレーションにおける聞き手への影響が見えてきやすいのではないでしょうか。

 

話し手が意図的に、聞き手が話し手に都合のよい解釈をすることを狙って比喩表現などを使用する場合もあり、この場合はコミュニケーションにおける約束事の形成をせずに物事を進めることができるため、本書でも留意されているように、マニピュレーションにはある種の話し手による責任逃れの側面もあるようです。

 

話し手が直接的に指示を出していない分、聞き手がマニピュレーションから推察した事柄を実行して、何かしらの不利益が出た場合、話し手は「直接指示を下していない(聞き手との間に約束事を形成していない)」ため、「自分はそんなことを言っていない(そんな指示は出していない)」と言い逃れをすることは可能だということです。

 

しかし、こういうことが横行してしまっては、本来責任が問われるはずの人間が責任を問われないという状況になりかねないと思います。

 

そのため、こういった際に聞き手側から責任を求める場合はコミュニケーションのときとは違う方法での対処が必要になるようです。

 

それゆえ、マニピュレーションに関して責任を求めるときには、別の道筋が必要となります。要するにマニピュレーションの責任を問う場合には、「自分の言ったことは言ったと認めよ」というコミュニケーションのレベルでの責任を問うのではなく、「それによってどのような結果がもたらされるのか」「そのような結果をもたらすということを予見してそうした発言をしているのか」といった、より一般的な行為の善悪の次元で責任を問うべきなのではないでしょうか。

(引用)三木那由他『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』p.284

 

つまり、本書で区別しているようにコミュニケーションとマニピュレーションの区別をし、その上でマニピュレーションにおける責任の所在を明確にするには、「言った・言わない」の議論とは別のアプローチが必要になるということですね。

 

とはいえ、「一般的な善悪」に基づく責任追及も、人によっては逃れることができそうな気がしました。

 

本書内でも注意されているように、聞き手の問題として無理に片付けることもできなくはないですからね。

 

だからこそ、マニピュレーションの段階で自分が聞き手だった場合は、それをその場でコミュニケーションの約束事形成まで持っていくことができたら、後々の責任追及の際に良いのかもしれないなと思いました。

 

またその場合は、ある種の「物分かりの悪い人物」として空気を読まずに図々しくも約束事形成まで持っていく力強さも必要になるのかもしれません。

 

さいごに

本書内では上記に書いた以外にも、差別の問題で生じるマニピュレーションの留意点や、物語を読む上で登場人物の会話からコミュニケーション面、マニピュレーション面で何が起こっているのかが詳しく分析されています。

 

木暮が特に好きな漫画『鋼の錬金術師』や小説『オリエント急行殺人事件』の場面など、知っている場面が会話という視点から詳しく掘り下げられていたため、本書を読んだことで、フィクション作品を読むときはその観点から読み進めるのも面白そうだと思いました。

 

また、コミュニケーションの感想でも書いたように、実生活でも大いに当てはまる分析が登場することで、過去の経験と照らし合わせて会話の場面で何が起こっていたのかを考え直すきっかけになりました。

 

会話をすることで人間は他者との関係を構築し、様々な言い回しによる行き違いなどで、他者との関係に変化が訪れたりするわけですから、会話は侮れません。

 

とはいえ、そういう一見ややこしい「会話」を、人間は日常生活で繰り返し行なっているというのも面白いですよね。

 

本書でも取り上げられていたシェイクスピアの1602年発表の『オセロー』だって、420年以上前の作品でありながら現在にも通じるマニピュレーションが行われていますし、今後も会話におけるコミュニケーションとマニピュレーションという2つの側面は続いていきそうな気がします。

 

 

同著者の『言葉の展望台』は購入してそのまま積読していたので、近々読み始めようと思います。

 

関連サイト

www.kobunsha.com

*1:本記事ではだいぶ簡略化して書きましたが、詳細は漫画『パタリロ!』を例にした本書内のマニピュレーションについての項目がわかりやすいです。

*2:広辞苑第6版より引用