不公平への向き合い方
タイトルはあたたかい雰囲気ですが、内容はいかに…
今回は、タイトルに惹かれて購入した『おいしいごはんが食べられますように』の感想記事です。
ネタバレには十分、注意しながら書きましたが、本文引用もしているのでネタバレが気になる方はご注意ください。また、引用文は一部、中略、後略しています。
『おいしいごはんが食べられますように』概要
作者:高瀬隼子
出版年月日:2022年3月22日 第1刷発行
出版社:講談社
著者概要*1
高瀬隼子(1988−)
2019年に『犬のかたちをしているもの』で第43回小説すばる文学賞を受賞し、デビュー。
2021年には『水たまりで息をする』を発表。『おいしいご飯が食べられますように』では第167回芥川賞を受賞。
内容紹介
第167回芥川賞受賞!
「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」
心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。
職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。
ままならない微妙な人間関係を「食べること」を通して描く傑作。
主な登場人物
二谷:29歳の男性社員。仕事も人間関係もそこそこ上手くやる。
押尾:新卒入社5年目の女性社員。人一倍、仕事を頑張っている。
芦川:転職入社6年目の30歳の女性社員。体調を崩しやすく仕事を早退することも多々ある。押尾の指導係だった。
感想
みんな現実にいるぞ…
というのが、読み進めたときの感想でした。そして読了まで延々と、「この人たちに身に覚えがあるぞ…」という感覚で、もやもやが残り続けました。
今作では、同じ部署で働く二谷、押尾、芦川の3人の関係性が、二谷と押尾の2視点のみで描かれます。
二谷は押尾や芦川がいる埼玉の支店に4月に転勤してきて、そこでの芦川の働き方が気になっていました。
押尾は芦川より1年遅い入社で、芦川の隣のデスクに座っています。入社当初は指導係の芦川に仕事を教えてもらっていました。
現在では度々早退する芦川の代わりに仕事をして、残業続きのことも。
一方、芦川は前職でのハラスメントが原因で、顧客のクレーム対応などは免除され、体調がすぐれないことが多々あり早退することもしばしば。そして、残業は絶対にしません。
あるとき、早退したことを境に手作りのお菓子を職場に持参するようになりました。
今作では度々食事のシーンがあり、登場人物の食に対する感情が生々しく描かれます。
その中でも、とりわけ二谷は食への興味関心が無いどころか、食に対して”生きている時間”を使っている人に対して憎悪とも取れるような感情を持っているように思いました。
以下、二谷が食に対して持つ思いについて、中略しつつ引用します。
ちゃんとしたごはんを食べるのは自分を大切にすることだって言われても、働いて、残業して、二十二時の閉店間際にスーパーに寄って、それから飯を作って食べることが、自分を大切にするってことか。(中略)帰って寝るまで、残された時間は二時間もない、そのうちの一時間を飯に使って、残りの一時間で風呂に入って歯を磨いたら、おれの、おれが生きている時間は三十分ぽっちりしかないじゃないか。それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。それは全然、生きるためじゃないじゃないか。ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう。
(引用)高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』pp.123-124
木暮はこの引用文に強く共感しました。前職の会社にいたときに、二谷と全く同じことを考えており、なんだか悔しくなって、仕事帰りに映画館に行くということをしていました。もちろん、夕食という夕食はとらなくなり、映画館のポップコーンのミニサイズやホットドッグ、そして飲み物、たまにアイスで食事を済ましていました。健康には良く無いのでしょうけれど、映画館の中という外とは隔離された空間で”自分の生きている時間”を強制的に作れたことは、精神衛生的には最高だった気がします。
二谷はカップラーメンやコンビニ飯で食事を済ますことが多く、本人にとってそれは自分が生きている時間を確保するための方法だったように思います。
働くことで自分の時間が限られてきて、肉体的疲労を解消することもままならないまま仕事に行くことに、共感できる人は多いと思います。
そんな状態で自炊して食に向き合うなら、別のことに時間を費やしたいと思う。
でも、人間も生物なので食べ物とは切っても切り離せません。自分の生活とそこでのジレンマが二谷の食への感情の源になっているのではないかと思いました。
また、二谷は食事を通して半強制的に感情を抱かなければならないということにも、疲労感を抱いています。
十五分ほどで食べ終わる。仕事から帰ってすぐ、一時間近くかけて作ったものが、ものの十五分でなくなってしまう。食事は一日に三回もあって、それを毎日しなくちゃいけないというのは、すごくしんどい。だから二谷は、スーパーやコンビニに行けばそこそこ作られたものがあるんだから、わざわざ自分たちで作らなくたっていいんじゃないかと思っている。思っているけれど、それを言う代わりに「おいしい」と言っている。ただ毎日生きていくために、体や頭を動かすエネルギーを摂取するための活動に、いちいち「おいしい」と感情を抱かなければならないことに、やはり疲れる。
(引用)高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』pp.68-69
食べ物やそれに関わったものについての感謝の気持ちを忘れてはいけないとは思いますが、木暮はこの感情の強制感には結構身に覚えがあって、あるときの自分の感情が文字に表れていると思うくらいでした。*2
食べ物を通して、ある条件が加わると強制的に「おいしい」という感情を引き出さねばならないことに対する疲労感。そしてそこに職場の人間関係も加わり、ひとことでは表せない感情が渦巻いていきます。*3
今作では、体調を崩しがちの芦川という存在を軸に、食を通して職場の人間関係が描かれます。
前述の通り、芦川は早退することもあり、仕事内容もなるべくストレスの少ないものになっています。それに対し、実質的に業務の負担を負っている押尾が、快くないと態度に表すと、それを見ていた上司も、”だからといって、どうにもできない”と語っています。
「どうしようもないでしょ。できない人……いや芦川さんのことを仕事ができないとは思ってないけど、それ以外の、まあしんどいこととかができない人は一定数いるわけで、だからってクビにできないでしょ。(中略)前の支店で一緒だった真木さん。四十半ばくらいの男の……、押尾さんも聞いたことあるかもしれないけど、あ、知ってる?ね、ひどかったよ。花粉症がひどいので休みます、肩こりがつらいんで休みます、気圧低くて体がだるいので帰ります、ってしょっちゅう。そんなのみんな、みんなしんどいけど我慢してるってことじゃんか。で、二言目には権利。働く者の権利。クオリティオブライフ。自分を守れるのは自分だけ。いやさあ、言ってることは分かるよ。っていうかおれもそうしたいよ。でも、じゃあ自分を大事にって言って帰った人の分の仕事は誰がやるんだっていう。花粉症なんてあの時期みんなつらいわけ。で、花粉症がつらいって帰った人の分を、別の花粉症の人がやるんだよね、無理して、残業して。(後略)」
(引用)高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』pp.42-43
現代では働き方、生き方の多様によって、あらゆる声を上げやすい社会になったと思います。それについて木暮も結構肯定的ですし、今よりも声が上げやすくなったら良いなと思う場面もあります。もっと「働きやすい」会社が増えれば良いなぁと思うわけです。
でも、その多様化によって、ある種の「不公平」を見ることも増えたように思います。
「理不尽」とも違って、「不公平」という言葉がしっくりきてるんですけど…
芦川は、早退したお詫び、そして仕事を代わってくれた感謝の意味合いも込めて、手作りお菓子を職場に持参しました。本来の労働環境的には、お詫びの品なんて必要ないのだと思います。でも、芦川は手作りお菓子という方法で、不公平を緩和しようとしたのではないかと木暮は思いました。
「不公平」と考えること自体が不毛なことだとは思いますが、会社という狭い場所においては嫌でも「不公平」が目に付くのではないかと思います。
あの人より、多い仕事量をこなしているのに自分の方が給料が低い。
自分だって体調が万全じゃないのに、体調不良の人の分の仕事もしなくちゃならない。
押尾も頭痛薬を飲んで仕事をして、繁忙期にも残業して、早退した芦川の代わりの仕事も担っていました。
しかし、早退した芦川さんがその翌日、手作りお菓子を持参してくる…
ちゃんと、”自分の生きている時間”を持っている…
手作りお菓子を配る芦川に対して、周囲の人間は肯定的なリアクションをする。
「そんな、気にしなくていいのに。」と言ったり。
そりゃあ、内にある感情をいちいちオモテには出さないですけど、引用文にあるように上司も「不公平」を感じているのに、手作りお菓子を配られる場面では、それはまるで無いもののようになります。
この場面のいびつさを文章から感じて、押尾などの「フォローする側」にいつも回っている人の感情が流れ込んでくるようでした。
みんながフォローし合える環境になるのが、理想だと思います。でもそのフォローの比重には偏りが出てしまう。でも、
「みんなつらい。みんな苦しい。」
という言葉で、せっかく上げられた声を遮るのも違うと思う。
前述の通り、今作は二谷と押尾の2視点のみで描かれているので、結局のところ芦川が何を思っているのかは、二谷と押尾のように「本当のところ」はわかりません。
芦川が本当はどんな状況にあるのか、どんな思いで手作りお菓子を持参しているのかは、芦川によって語られない限りはわかりません。
本当に体調が悪いのかもしれないし、別に理由があるのかもしれない。
現実でも「わからない」ということを、無理にわかろうとしなくてもいいのではないかと思うわけです。こちらに見えていない部分が見えたときに、それを「本当のところ」だと断定してしまうと、「不公平」という判断を下す材料になってしまう気がするので、たとえそれが思考停止だとしても、「本当のところはわからない」んだと受け止める。
そうやって「わからない」ということを受け止めることで、「フォローし合える」関係が柔軟になるのではないかと思いました。
「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」と話した二谷と、押尾、そして芦川の3人のその後については、この場では語りませんのでぜひ読んでみてください。
余談
小説を読んでいると、たまに「映画化してほしいな」と思うことがあるのですが、ひさびさに今作ではそう思いました。
全くの個人的な話をすると、芦川のイメージは夏帆さん、押尾のイメージは松岡茉優さんでした。
二谷のイメージは思い浮かばずに読了したんですけど…
関連サイト
『おいしいごはんが食べられますように』講談社BOOK倶楽部
関連過去記事
映画館という空間で、”自分の生きている時間”を過ごしていた自分を回想した記事です。
*1:高瀬隼子 - Wikipedia参照。最終閲覧日:2022年11月27日
*2:とはいえ、自分は二谷になりきれずにランチは美味しい定食屋に行っていたので、そこまで二谷ではないとは思っているんですけど。
*3:【長めの余談】前職の話になりますが、芦川のように毎日手作りお菓子を職場に持参する同僚がいまして、断ったら断ったで「ひどい。食べてもらえないんだ。せっかく作ったのに。」と言われ、困っていたことがありました。その同僚は自分の仕事のミスが分かるとすぐに早退する人で、木暮は困惑オブ困惑を極めていました。手作りお菓子を貰ったらその場で食べてリアクションしないと、「食べて、感想聞かせて。」と言われ、時にはデパ地下に売っているもの指定で「お返し」を催促されたり…。この場合の感想では「おいしい」以外の言葉は求められていないと思う木暮は、「手作りお菓子」という食べ物に対する感情の強制感には身に覚えがあり、正直なところ「手作りお菓子」に対してのネガティブなバイアスがかかっています。あの時は本当に断るに断れなかった…。控えめな芦川と、以前の同僚は全く違う性質だとは思うので一緒くたにはできませんが、その控えめな芦川が作ってくる手作りお菓子によって引き起こされることは、性質が違うけれど身に覚えがあるものだったので、芦川より先に二谷や押尾の感情に共感ばかりしていました。