はじめに
今回の記事は、雫井脩介『望み』を読んで考えたことと、映画「望み」を見た感想を書いていきます。
ちなみに、概要やあらすじ、登場人物などは原作小説をもとに書きます。
余談ですが、木暮は映画→原作→映画の順で映画は2回見ました。
また、ネタバレ等はしたくないので、ネタバレを期待していらっしゃる方は、誠に申し訳ありませんが、ネタバレなしでお楽しみください。
概要
率直に申しますと、原作小説と映画版では概要(あらすじ)には大きな違いはありません。しかし概要の視点を整理するために、ここでは原作小説をもとに概要に触れていきます。
今回取り上げる『望み』は2018年に映画化された『検察側の罪人』も書いていた雫井脩介による小説。著者は『検察側の罪人』以外にも、映像化された小説を執筆しています。
『望み』は電子小説誌『文芸カドカワ』にて2016年1月号〜7月号に連載され、その後2016年9月にKADOKAWAから刊行された。
その『文芸カドカワ』に連載開始した際に著者が寄せたコメントとして以下がある。(以下、角川文庫『望み』公式ページより引用)
「望み」は、ある少年事件が絡んだサスペンス風味の物語であり、関係家族の心に深く分け入っていく家族小説であります。
目の前に絶望的な現実が立ちふさがろうとしたとき、しかもその絶望的な現実がまだはっきりとした姿を見せてくれないとき、家族はそれぞれ何を思い、どんな可能性に希望を見出そうとするのか・・・・・・。
彼らの「望み」に寄り添ってみてください。
---雫井脩介(連載時に寄せたコメントより)
この著者のコメントにもあるように、今回取り上げる『望み』はある少年事件を発端に、登場人物それぞれの立場や家族への想いから、各々の「望み」が浮き彫りにされていきます。
その流れが圧巻でした。
ではまず登場人物・あらすじについて触れていきます。
登場人物(主要4人に絞って紹介)
石川一登(いしかわ かずと):建築デザイナー。自宅をモデルルームとしても活用。
石川貴代美(いしかわ きよみ):校正の仕事を在宅で行う主婦。一登の妻。
石川規士(いしかわ ただし):一登と貴代美の長男。この度高校に入学。
石川雅(いしかわ みやび):規士の妹。中学3年生で高校受験を控える。
あらすじ
以下は『望み』KADOKAWA公式サイトより引用
年頃の息子と娘を育てながら平穏に暮らしていた石川一登・貴代美夫妻。9月のある週末、息子の規士が帰宅せず連絡が途絶えてしまう。警察に相談した矢先、規士の友人が殺害されたと聞き、一登は胸騒ぎを覚える。逃走中の少年は二人だが、行方不明者は三人。息子は犯人か、それとも……。規士の無実を望む一登と、犯人でも生きていて欲しいと願う貴代美。揺れ動く父と母の思い――。心に深く突き刺さる衝撃のサスペンスミステリー。
物語は、埼玉県戸沢市という架空の市が舞台。
主人公の一登は、建築デザイナーとして成功をおさめ自宅となりにある事務所で、アシスタントの梅本と、建築デザイン設計事務所を切り盛りしていた。その仕事の一環で、自宅をモデルルームとして活用するなど創意工夫を欠かさず、顧客の人気も掴んできた。
一登の妻・貴代美は在宅で校正の仕事をしており、仕事にはプライドを持って取り組み、家事もこなす日々を送っていた。
そんな中、長男の規士が頬に怪我をして帰り、その後切り出しを買ったことがわかった。そして物語は徐々に動き出す。
切り出しを一登に取り上げられた規士は、9月のある週末に行方不明になった。その頃戸沢市では少年の遺体を載せた車が発見されるなど物騒な事件が起こっていたのだ。
この事件で殺された少年は規士の友人だった。その事件関係者で行方不明者は合計3人。逃走中だと判明しているのはその内2人。規士はこの事件に、どのように関わっているのか。犯人なのか、または被害者なのか…
その2つの仮説の間で揺れ動く、石川一家。そしてそれを取り巻く周囲の人々のそれぞれの「望み」は、どのような形で集束するのか。
立場の違いで出てくる「望み」の違い
この『望み』の中で、言わずもがな登場人物それぞれの立場に注目すると、それぞれの
「望み」にリアリティが増すと考えます。
一登は自分の事務所を持って、建築デザインの仕事をして軌道に乗っている状態。自宅も自分たち家族の暮らし方を考え抜いて建て、仕事の打ち合わせでも顧客に自分の家を見学してもらうなど、自分の仕事と「自宅」はとても強く結びついています。
一方の貴代美は、出版関係の仕事として校正の仕事を在宅で行っており、家事もこなしながらも仕事にはプライドを持っている様子。
そして規士の妹の雅は、高校受験を控える中学生。県内でも名門と言われる学校を志望していて、学習塾にも通い家でも勉強を怠らないなど、受験一筋に邁進している。
そんな中での家族の行方不明になった。
そしてその行方不明の家族が、事件にどのように関係しているのかによって、その後の人生に影響が出てきます。
加害者ならば、一登はこれまで築き上げてきた仕事の経歴や仕事仲間を失い、もう二度と建築デザインの仕事には戻れなくなるかもしれない。また、建築の仕事に戻れずに他の仕事を探したとしても、事件によって一登も「特定」されているため、仕事自体にありつくことができない可能性もある。
そうしたら、貴代美や雅と住んでいた自宅も手放して引っ越す必要が出てきて、これまでの生活が一変してしまう。
雅はその引越しや、身内に加害者が出たということで志望校への受験は失敗するかもしれない。
しかし被害者ならば、一登はこれまでの仕事の経歴や仕事仲間等を失うことは免れる。
貴代美も雅も、そのままの日常に戻れる可能性が高い。
貴代美は規士の母親であり、規士がただ生きていてくれさえすれば良いと、家族の社会的立場以上に、規士の無事を望んでいた。
息子を加害者になるように育てたつもりはないし、規士自身も高校入学後のある怪我で、目標を見失っていた事実はあっても、他人を傷つけるような子ではないと信じている。
つまり貴代美は、規士が加害者であってもその事実を受け入れる覚悟をしていて、加害者であること、規士が生きていることをひたすらに望んでいたのだ。
一登と雅の望みは貴代美とは別の方向を向いており、一登よりも雅の方がこれから先の将来を危惧するあまりか、規士が被害者であることを望んでいる。
このことに関しては後々に雅が考えを述べる場面があるので、そこは身につまされる思いになり、今回の『望み』の中で特に印象に残っている場面です。
これらのことを念頭に置いて物語を読み進めると、その中に出てくるマスコミに対して嫌気が差してきます。
事件関係者と分かった途端、自宅に押し寄せて時間を問わずにプライベートを脅かしてくる存在として丁寧に書かれていた分、とても嫌な印象を受けました。
ネット上での「特定」もそうですが、事件関係者もとい加害者の家族であるかのような印象操作的報道によって、現在起きている事件でも同じような構造で脅かされている人がいるのかもしれないと考えてなりませんでした。
今回物語の中心にいた石川一家は、それぞれのさまざまな想いから家族への想いや望みが大きく揺れ動いていた中で、外野からのこういった圧は追い討ちをかけるものであると痛感させられました。
映画『望み』を見た上で印象に残ったこと
映画『望み』の概要
映画『望み』は堤真一主演、石田ゆり子共演で2020年10月9日に公開されました。
その他、キャストは規士役が岡田健史、雅役が清原果耶。
余談ですが、この石川一家のキャストが全員木暮が好きな役者さんだったので、見るしかありませんでした。
前述の通りあらすじとしては原作小説と大きな違いはなく、強いて言うなら原作に登場していた規士の友人が1人にまとめられたことと、作品内での季節が原作では9月だったのが映画では12月終わりから1月にかけてだったということでしょうか。
でも物語の大筋はそのままで、原作小説内で登場した展開を違和感なく別のシーンに織り込んだりと、原作がある映像作品でよく見る原作であった重要なシーンを割愛されていて、もやもやするといった部分はなかったように思います。
印象に残ったこと
映画の中で強く印象に残っているのは、「家」というものの描かれ方でした。
原作でもその良し悪しは別にして一登という仕事柄、家(自宅)というものに固執している(愛着を持っている)ような印象も受けましたが、映画で見てみると、その一登が見ている家の見方が、時間を追うごとに変わっているような印象を受け、とても印象に残っています。
具体的に言うと、堤真一演じる一登が度々自宅を敷地の外から眺めるシーンがあるのですがその時その時で、自宅を見つめる一登には不安や、決意や安心(日常)といったものが見えるのです。
原作でも自宅に関する描写はありましたが、あくまでも何者かによって自宅にいたずらをされた描写や、マスコミが押し寄せていることを表現する描写にとどまるのみで、自宅についての一登の固執は、その他の描写から読み解くことができました。
一登が実際に家を眺めるというシーンは映画だからこそ実現したシーンなのではないかと考えます。また、そのシーン自体は原作にはありませんでしたが、映画の中ではとても重要で無くてはならないシーンだったと思っています。
「家」とひとくちに言っても、様々な意味を含んでいると思います。
「家族」が集う場所としての「家」(「家族」との交流の場所としての「家」)
「仕事」を支える部分での「家」
「自分」を守ってくれるための「家」
など…
そんな中で、一登には自分が丹精込めてデザインし、家族と大切に住んでいた家がどんな風に写っていたのでしょうか。
自分の家族である規士が加害者なのか被害者なのか…
それによって、これまで家族を支えていた「家」が失われること可能性がある。
これまで、家族と仲睦まじく過ごしていた「家」に、外部から危害を加えられいつもと様子が変わってしまった「家」…
私はこの映画を初めて見た時は、「なんでこの父親は家ばかり見ているのか。中にある家族には目を向けず、外見ばかり見ている(自分の立場ばかり気にしている)」と思っていました。
しかし原作を読んだあと2回目の鑑賞をした時は、全く印象が違いました。
一登は、家族を守っていた「家」がある1つのことからどんどん変わっていってしまう様子をただ眺めるしかなかったのではないかと考えるようになりました。これは、家族というものの変化にも通じるものがあり、映画の中で特に印象に残りました。
さいごに (原作と映画を見て思ったこと)
今回、原作小説を読むに至った経緯としては、先に映画をみていたところにあります。
前述の通り映画版に登場する役者の方々は木暮が好きな役者さんばかりだったのと、予告に惹かれて映画を見ました。
コロナ禍ということもあり、映画館に行くか物凄く悩みましたが、結局映画館に行かずレンタルが開始したら見ようと思っていたのに棚からぼた餅で、Amazon prime videoで見ることができることになりました。
その映画を最初に見終わって「これだけ濃度の濃い映画ならば原作はどうなっているんだろう」と考え、原作に手を伸ばしたのでした。
実は映画を見るずいぶん前に、原作本は手に入れていたんですが木暮お得意の積読マジックにより積読の山々の一部と化してしまっていました。
そしたら案の定、原作も濃度が濃く読み進めるごとにその先が気になる、その先が気になるとどんどん読み進めました。
映画を先に見ていたので、結末はおおよそ理解していたのですがそれを全く作用させずに読むことができたのは、この原作だからこそだったのかもしれません。
今回の記事で木暮が考えていたところを、稚拙ながら文章にまとめることができ原作・映画ともに木暮の頭の中にすとんと落ちる感覚(とても良い意味で言っています。これ以外の表現が出てこない…)になり、久しぶりに濃い時間を過ごせたなと思う作品に出会えたように思います。
まだ、『望み』を読んでいない・見ていない方、是非どちらからでも大丈夫なので見てみてください。
しばらく頭に残る作品として残るはずですよ。